学級崩壊する予兆とは? 迷惑行為を繰り返す子どもたちの共通点とは?
教育における「身体性と距離感」の喪失について
■「一人ではない」という肌感覚を持つとは
迷惑行為を行なう子どもに限らず、今の子どもたちは心が不安定だし、いつも不安を抱えている。その一つの要因は、子どもの身体性が失われているからではないか、と私は思っている。学校に限らず社会生活においても、制限が常に伴う関係しかとれなかったこのコロナ禍の3年間は、身体性の喪失が浮き彫りになってきた。
私が子どもの頃、家庭であろうと、地域であろうと、学校であろうと、自分が活動している様々な場所では、常に誰かが傍(そば)にいる感覚があった。一人でいても自分は一人ではないという感覚が常にあったのだ。だから、山の中に一人で入り、「忍者修行」と称して山の中を駆け巡ることも平気でやれた。
「一人ではない」という感覚は、長い時間をかけて育んできた「肌感覚」なのだが、その「肌感覚」こそが「身体性」なのではないかと私は思っている。前述した迷惑行為を繰り返す多くの子どもたちには、「自分は一人ではない」という「肌感覚」がない。自分の傍には誰もいないのだ。誰も自分のことを見てくれていないのではないかという寂しさや、自分だけ勉強を理解していないんじゃないかという孤独感が常にある。だから、ちょっとした刺激に弱い。多くの子どもはスルーするような言葉に反応してしまい、時に、自分を自暴自棄にさせ、自分勝手な行動に走らせてしまうのだ。
かつて、子どもが自治する小さな共同体の中で、体を寄せ合い、口角泡を飛ばして言い合う時間の積み重ねがあった。口うるさく言わなくても、目の前で働く大人たちの後ろ姿は、子どもが踏み込めない「大人の世界」を見せてくれていた。時に大人たちは私たちを懐深く抱き寄せ、甘えさせてくれた。そして、時に強く守ってくれた。そんな大人たちに言われれば子どもは聞くしかないだろう。仲間への信頼感や大人への畏敬の念は、理屈ではない「肌感覚」だ。今、子どもたちの中に、その「肌感覚」がなくなっているのではないだろうか。そう思えてならない。
■ある小学校で起きた下校時間の出来事・・・
ある小学校で次のようなことが起きた。それは2年生の子どもたちが下校している時に起きたことだ。
4人の子どもたちが麦茶を口に含みながら、お互いをはやし立てている。Aさんの口の中は麦茶でいっぱいだ。それを見たBさんがAさんをターゲットによりはやし立てる。すると、Aさんは麦茶を吹き出してしまったのだ。その方向がBさんのいる方だったので、当然のことながらBさんは麦茶を浴びることになる。
下校中には、ありがちな話である。ところが、翌日Bさんの母親から連絡があったのだ。
「隣のクラスの子に口に含んでいる麦茶を吹きかけられたので指導してください」
担任は「こんなことで指導するの?」という思いを持ちながらも、その申し出を受け入れ、次の日、子どもたちから事の子細を訊いた。すると上記のような話だったので、これは指導というより「故意でないにしても、次からはそういうことがないように、気をつけようね」という話で終わらせることになった。
翌日、再び母親から連絡があったので、次のように告げた。
「みんなでふざけあってやっていたみたいです」
すると、
「知ってますけど」
そんな言葉が返ってきたのだ。それを知っていて、さらに教師に何を求めようというのか。何をかいわんやだ。
下校途中の何気ない時間だが、このような時間が子どもにとっていかに大切な時間なのかを、私たちはもう一度考えなければならない。いや、家庭、地域社会、学校等々で子どもを育てているすべての人にもう一度考えてほしい。子ども同士が、体と体をぶつけ合いながら関係性や距離感を育むこの時間は、子どもたちにとって、自分たちで自分たちを治める大切な時間なのだ。大人が干渉できない貴重な時間でもある。
ここで、子どもたちは、自らの快不快を感じ、人とつながることの心地よさ(距離感)を味わい、そして、目の前に起こる様々な問題に対処しながら対応力をつけていく。このような体験の積み重ねで、「自分は一人ではない」という「肌感覚」も養われていく。さらに、それが、子どもたちの「みんなで生きる力」にも繋がっていくのだ。また、その力が子どもたちの心を「安定」へと導いていることを、大人はもっと意識すべきである。
大人が子どもと関わる場はたくさんある。前述したように、子どもを懐深く抱き寄せ、安心を与えなければならない時が、家庭や学校にはある。しかし、それと同時に、大人が関わってはいけない子どもの領域があることを、もっと意識しなければならないのではないだろうか。子どもが「肌感覚」を失っている要因は一つではないと思うが、大人が子どもたちの自治する場を奪っていることも大きな要因である。
文:西岡正樹
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